親であるということは、大部分の人にとってはもっとも重要な生産的経験であるが、エリクソンは、たとえ子どもを産まなくても、他人の子どもの世話や、子どもたちのよりよい社会の建設に参加することによっても生産的たりうるとする。

 いうまでもなく、人類の存続は、多くの労働者や芸術家や思想家の生産性にもかかっている。したがって世話とは産み出されたものすべてに対する広がる関心であり、それを育て、守ることである。
 つまり、鑪幹八郎氏によって指摘されているように、エリクソンは、親が子どものしつけを行うのは、社会的行動を全くもたない子どもに対して、行動や価値の社会規範を植え付けるためであるとは考えないのである。親子それぞれが発達課題を遂行していくことそのことが、その社会の成員として組み込まれていく過程なのである。

 そして、大人であろうと子どもであろうと互いに自分の発達課題に取り組んでいるという意味で両者は対等であり、したがってしつけは子どものためだけの問題ではない。大人も自分の発達的課題として受け止めるべき問題なのである。

 E.エリクソン 著 仁科弥生 訳『幼児期と社会』みすず書房、1977、P358 より抜粋 (※抜粋範囲は訳者あとがき)

これは日本に限ったことではないが、みんな文章を書かな過ぎである。学校で書かされる文章は、権力者(先生)の顔色をうかがい、空気を読む訓練なので、まあ役に立たないわけではないが、自分の意見をきちんと文章化する訓練は、アメリカも日本も圧倒的に足りないので、君たちが自分で補うしかない。

承認欲求が大きければブログにして公開すればいいし、そうでなければ、誰にも見せない日記を書くのでもいい。いずれにせよ、読者を想定して自分の意見を書く訓練をしよう。

文章力ほど教育課程で軽視され、社会人生活で重視されるものは他にはない。